SNSが普及する前と後で

 2008年の12月に愛知県瀬戸市内の駅で、人身事故で列車が止まったのを覚えている人、いるだろうか。今日ふと思いついて「駅名 人身事故」でツイッター検索をかけたのだが、何も出てこなかった。一番新しいデータでも2009年。ツイッターが日本でサービスを開始したのは2008年4月だから、まだ普及してなかったんだと思う。わずかにブログで情報をアップしていた人がいたくらいで、リアルタイムでの声はなかった。急行列車と衝突したのは高校三年生の男子生徒だったらしい。実際にそこにいた、という声は見られない。

 これが2014年3月の事故になるとツイートが増える。電車が止まっていて時間に遅れそう、とか、人落ちたの?とか。人身事故の死亡者の年齢が自分と近いことに複雑な気分を吐露する人もいる。現場の画像もアップされて臨場感がある。少しサービスの普及時期が違うだけで、これだけの差があるということにとりあえずは驚く。世の中には、とりこぼされる物事がたくさんある。それをどう丁寧に拾っていけるかっていうところに、個人メディアの価値はある。些細なことではあれ、あの時あの場所で何が起きていたのか知りたいという人の需要に応えてくれるという意味でも、SNSって重要かもしれない。

 ところで今日、入籍しましたと報告をくださった方が、やっぱりSNSでお相手と仲良くなったらしく、それがなかったら今の私たちはないとおっしゃっているのを見て、なんかもう、後戻りはできないんだ、と思って見ている。

体型、ないものねだりの終わらなさ

 155cm、46kg。BMIの最適値は52.96kgだったから、ほぼ53kgが理想ってことになる。これが44kgまで落ち込めば危険領域。やたら痩せ型を賛美する世の中だけど、ガリガリになる必要はどこにもない。でも「痩せていればモデル体型、すなわち綺麗」と思ってダイエットに励む真面目な女の子の耳にはたぶん、届かない。ウエスト58㎝だと理想的、なんて話も聞くんですが、私にとってそれはチーズと野菜だけで飢えを凌いだ日のサイズです。

 人によって理想の体は違うと思うのだ。ちょっとぽっちゃりが一番似合う人もいるし、すらりと縦に長いのが魅力になる人もいる。骨太な人ならグラマラスを目指せるかもしれないし、華奢な体つきでスレンダーが持ち味になる人もいる。自分をよく知るっていうのは、それが例え外見のことであっても大事なのだ、きっと。だってそうでなければ、無理な拒食や過食(巨乳になりたいってバクバク食べる子もいる)で、かえって長所を捨ててしまう羽目になる。

 それがなんでできないかって言うと、ないものねだりが止められないからだと思う。オードリー・ヘップバーンマリリン・モンローにはなれない。彼女はグラマラスに憧れることをしないで、細身のスターであることを受け入れた。マリリンは整形もして自分を作り変えながら大衆の偶像であろうとしたけど、オードリーは違った。そういうところが好き。ないものはねだってもないのだから、あるものを磨くほうが話が速い。それでも、自分とは異なる何かに憧れてしまう気持ちはわからなくはないけど。

バレンタインの残酷

 男のいない惨めさっていうのを、パートナーのいない女性たちはどうやって解消しているんだろう。どうしても彼氏が欲しいってわけじゃないし、気になる人だっていないけど、でもこのまま誰からも「女」として扱われずに生きていく、みたいなのはやっぱり耐えられない。そういう風に思うことはないのかなあ。世の中にはちゃんと愛を告白される女の子がたくさんいるのに、どうして自分はその中に入ってないんだろう。それは自分の欠陥みたいに見えはしないか。

 もちろんそれは男性だって同じことで、バレンタインデーって彼らにとって結構残酷な日なんだろうなと女の私は思う。これ、立場が逆だったらすごく嫌だ。モテる子は好意で贈り物を貰える。でも、自分は放課後まで残っていても何も貰えなかったら?焦るし悲しくなるんじゃないだろうか。あれはモテる人たちによる差別的な文化だという気がしないでもない。来年、2月14日がきたら小さなチョコでも配ろうかしら。チロルチョコ。それくらいの投資で誰かがハッピーになるならいいだろう。

 ああ、でも思い出すな。自分だけ友チョコを貰えなかったこととか。もういい加減、あの風習は廃止したらいいよ。苦しい思い出しかないもの。

 

追記。

でも、やっぱりそれを楽しいと思う人たちがいる限り、やればいいんだと思います。心は広く寛容に。

独白

 平凡な人生を歩むことは負けだと思っていた。わたしは人生を大切にし過ぎて、かえって無駄にした、そういう人間です。

 「世間からのひきこもりや孤独こそが創造性を生む」なんていう言葉を真に受けすぎて、特別でいるつもりで周囲を拒絶して、結局ひとりになったに過ぎなかった。挑戦するからには絶対にそれなりの成果を持ち帰らなければならないと思っていたせいで、気軽な挑戦は阻まれた。わたしはずっと、つまらない思いで生きていた。

 そういうブロックが外れたのは最近かな。スピリチュアルに財布も頭も漁られ、それでも特別な人間にはなれず、かえって社会への底辺へと道を逸れかけた。

 お盆だからな。祖先を拝むついでにふと、自分の来し方行く末を思ってしまう。

 自分が変わっているのは非凡だからだと言い聞かせながら、流行りに乗って騒いでいる周りを見下して、気づいたら何も残ってない。何が創造性だよ、と思いながらも、でもそんな説教にだまされた自分が弱いのはわかりきっているから何も言えない。

 昔の同級生をネットの中に見つけた。わたしよりも先生に可愛がられていたその娘の写真が、自分よりも少し老けて見えた。それだけで、いまは私のほうが美人なんだと、昔のことをチャラにしてやる気になったのだから、人間っていうのは本当に得体が知れない、業が深いのに単純な生き物だ。

読売の営業が土下座していったそうな

 祖父のいる実家に、読売新聞の営業を名乗る男が来たらしい。他の家族が手を離せずに祖父が出て行って話を聞いたら、契約してくれと土下座されて追い返せず、結局購読することにしたと。やらされているんだろうけど、いまどきそんな形の営業なんてあるんかい。びっくりと同時に絶望。情に流されやすかったり、プライドの高かったりする老人相手だったら、それでもうまくいくんでしょうね……

 正直、新聞社って黒い部分大きいな、と思う。たぶん実家に来た若い男は、読売の社員じゃなくて委託業者だろう。NHKの集金だって委託みたいだけど、みんな自分の手は汚さないで外に頼むんだ、そうすれば彼らが何かやらかしても足切りすれば済むわけだね。新聞配達だって「留学生を名乗っているものの実態は出稼ぎ」という、なんなら底辺中の底辺の人たち(日本語を話せない人もいる)を使っているのに、それはほったらかしておいて「日本に留学するエリートグローバル人材」ばっかり記事にするんだね。

 別に怒っているわけじゃない。ただマスコミが権力化している状況が、残念だなと思うだけ。

なんか変、っていう些細で大事な感情

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 何を検索していたかはともかくとして、真ん中の「濃い髭」の広告はなんなの。ホモって言葉が差別用語なのがひとつ、そしてゲイの人の外見に対する偏見、そして女性が濃い髭を嫌がってますよ、というある種の決めつけ。関係のない人間を不愉快にしてまで何を宣伝したいのだ、あなたは。コンビニの成人誌なんかより、唐突に出てくる差別と偏見のほうこそ自粛してほしい。コンビニはいいよ。「ここにいかがわしいものがありますよ」ってスペースを区切っているから。でも、こういう広告は前触れなしだから、より不快感が強い。

 そういう違和感は、スルーしてしまえばそれまでなのだけど、違和感は押し殺し続けているといつか本当に消えてしまう。学生時代は「どうして制服なんか着るんだろう」「なんで男子の名前のほうが、いつでも女子の先の記載されるんだろう」とか考えるのに、喉元を過ぎれば熱さを忘れて「学校ってそういうものでしょ」と言うようになる。おかしいものはおかしいのに、違和感を無視して、そうして問題に気づかずに腐っていく。女子のポニーテールを禁止できてしまうような学校の制度なんか、思考停止の象徴だ。

 「何か違う」「何かおかしい」と思う本能というか感情は、リスクを取るに値するものだ。自分のプライドなり社会的評判を賭けてでも、変なものは変だと言い、是正しようとすることはすごく大事で、実際にやるには躊躇があったとしても、違和感を大切に持ち続けることくらいはやめたくない。

大丈夫だよと言いたい

 子どもの頃に未来に向けて書いた作文を読み直したら、あまりに夢がなくて愕然とする。勉強についていけているのか、とか、苦しい思いをする羽目になってないか、とか、心配性っていうよりも、周囲の脅しの言葉を丸呑みにして震えている子どもがそこにいる。「学年が上がるんだからしっかりしなさい」「勉強ができないと将来が大変よ」って常識に怯えるばかりで、子ども時代を全然楽しめてない。

 大丈夫だよ、と言ってあげたい。大人の言うことを聞いて彼らに時間を売り渡しても、報われはしない。ただのいい子って言われるだけで、それと引き換えにあなたは、子どもに許されるすべてを失う。そんなに怯えなくても人は勝手に大人になるし、大人になったからって完璧になるわけじゃない。完璧な人間以外、存在が許されないわけでもないし、いい子だからって愛されるほど世の中は単純じゃない。要は、どう生きたっていいわけで、だから大丈夫だよ。あなたが思い描いた通りの未来にはならないけど、それを含めて「大丈夫」。

 でもこれって、ひょっとしたら何十年後かの自分が、そっくり今の私に向かって言うことなのかもしれない。思い描いた通りにはならなくても、だからって何も悪いことはない。人は勝手に大人になるし、人を脅す奴の言うことを聞いたところで、報われる保証はない。時間軸を変えてみると、少しだけ人生が俯瞰できる気がする。