好きでもないことども

 単に「それができるから」という理由だけでやっている、好きでもなんでもないこと。そういうものについて考えてる。

 人に褒められるからやっているけど、別に好きでもないこと。やりたくはないけど、なんとなく止められなくて続けていること。そんなことばっかり積み上げていくと、生きてて何が楽しいんだかわからなくなる。今まさにそんな感じ。何が楽しいんだろう、ホントに。

 オー・ヘンリーの『最後の一葉』の中に、こんな台詞があった。

「何か気が紛れるようなものでもあればいいんですが……たとえば男とか」

「男なんてものは……あ、いいえ、そういうものはありません、先生」

 病人が自分の死のことばかり考えているから、どうにか気を散らすものはないのかって医者が訊くシーン。でも生きるに値する理由が始めから与えられていたら、誰も死ばかり願ったりしないんじゃないか。恋人がいれば生きていたいって思えるほど、異性の存在って大きいかなあ。

 好きでもないのになんとなく続けてることって、最大のそれは「生きること」なんじゃないの、たいていの人にとって?それは、おいそれとは止められなくて、そういう理由で生きている人間が世の中の九割九分なのだとしたら、神さまは何か設計を間違えたとしか思えない。

 それとも世の中には、自分の生きる意味が完璧にわかっていて、みんながみんなにこやかで健やかな世界があるんだろうか。私の目に映る世界が、単にこの色をしているだけで?

コンビニ労働

 コンビニ漫画『ニーチェ先生』を読んでる。新人バイトが入ってきたはいいけど非常識な人だった……みたいな話があって、漫画ではあるものの、コンビニの現場って人を雇うのも大変だよなあって、その社会性に妙に納得する。常識があって接客ができて、理不尽なお客様に耐えられる人じゃないと続かないだろうし、コンビニの勤続年数が長い人って……きっととても忍耐力のある人なんだね。

 原作者・松駒さんから寄せられた後書きが「コンビニ店員は誰でもできる仕事、という定説に異論はないのですが、一点だけ付け加えたいです。「そして、誰もが続かない」と。」と書いておられて、あの業界が慢性的に人手不足なのもうなずけるなあと思う次第。こういう仕事は「いつでも辞められる」っていうところが一番のネックで、気軽に応募し気軽に辞めていく人々がいるから、いつもあらゆるコンビニで募集がかかってる。

 近所のコンビニでは、ずっと同じ人たちが働いているから環境がいいんだろうな。絶対に時給以上の働きはしない、ちょっとやる気がなくて本当に普通な感じの従業員の人たちを見ながら、こういうのがいいよなあって思ってる。奉仕もなく酷使もなく。労働なんて、それでいいだろうって。

分断されている

 「国民的○○」っていうのは、結局テレビを見る層に向けて語られる言葉に過ぎない気がする。テレビを見ない人には全然わからないから、どこが国民的なのかわからないっていう、実態の空虚さ。それでもテレビの影響力は大きいし、それに代わるメディアもない。なんだかそれがもどかしいなあと思って。

 国をひとつにまとめ上げる力のある媒体は、もう存在しないと思っている。新聞にしろテレビにしろ、それを見ない・読まない層が一定数いる以上は、人々の思想をひとつにはできない。そうやって多様性が確保されるのはいいことだ。どんな媒体を使おうが自由だし、ネットさえあればそもそも日本の流行を無視することだってできる。ただ、メディアの細分化に伴って、もう本当の意味での「国民的女優」とか「国民的スター」が出てこないんだと思うと、それはなんか悲しいな。

 いつだったか読んだ本で「オリジナルのメディアを作ろう」というのがあった。自分たちのコミュニティのことだけを話題にする、小さな共同体にだけ通用するメディア。こういうものが増えていくのかもしれない。

 ネットの世界は広いなんて言うけど、ツイッターもインスタグラムも、趣味の合う人同士の小さなコミュニティが出来上がっているに過ぎない。こうやって分断されて、隣り合わせの世界に住んでいる人とも話が通じなくなっている。支配の原理の一つは「分断して統治しろ」だっけ。誰とでも繋がれるはずのネットは、皮肉にも、同じ価値観の人たちが集まる小さなムラを無数に作っただけ。

 思想や流行を統一しようとするテレビは嫌いだけど、ひょっとしてネットはそれより悪いかもしれない。

適材適所

 少し気取った店にいる人たちが、他人を無言で押しのけながら商品を見るのに対して、場末のスーパーでは陳列棚の前にいる人に「前、すみません」と一声かけながら品物を手に取る人がいる。なんやろなあ、これ。

 コンビニでも、肉体労働をしている感じの人ほど爽やかにお礼を言って、小綺麗なサラリーマンほど態度が悪いって話を聞く。実際に働いてたわけじゃないから確かなことは言えないけど、ありうることだなーと思って。どうせならよいお客サマになりたい。

 私見だけど「ちょっといい店」に入るような人は、自分をよく見せたくてたまらなくて、そこらへんの他人に頭を下げるっていう発想がないんだろう。それが例え「すみません」の一言であっても、誰かに譲歩するってことが許せないんだと思う。実名を挙げると「とらや」の店舗にいる中年女性なんかにその傾向が強い。商品を見ていれば無言で押しのけてくるし、前の人の会計が終わってないのに、自分のカゴをレジに突っ込んでくる。

 「とにかくワタシにいい思いをさせてよ!」っていう、みっともない絶叫。まるで乞食だね。

 ハイクラスな文化は、ハイクラスな人のものだ。生活中流、内面下流の人間が割り込んでくるような場所じゃない。住み分けはできたほうがいいと思うな。ダイヤモンドは宝石箱、ゴミはゴミ箱。いまの日本の中流層って、ぶっちゃけ一番ダメかもしれない。

自分探しですか?

 そういえば「自分探し」って言葉あったな……。10年くらい前に流行ってたって感じがするけど、あのころ自分を探していた人たちは、結局見つけられたんだろうか。

 理想的に生きている架空の自分のことを指して「本当の私」なんて言うことに違和感がある。私は今ここに生きている私ひとりで、それが何よりも本当の私じゃないか。認めたくない欠点のことだけ都合よく「偽物の私」とまとめてしまえるなら、それはそれで気が楽だろうけど、それってただの現実逃避だ。

 人は何かであるんじゃなくて、これから何者かになっていくんだ。大学で学んだことのひとつはこれ。だから何者になりたいのかよく考えるのが大事なんだけど、そんなに「なりたい自分像」みたいなのがあったわけじゃないから、そんなこと言われてもどうしたらいいかわからなかったんだけれど。

 わからないならわからないで生きていける世の中がいいな、と思う。大半の人間は自分が本当は何を望んでいるのかも知らないし、知らないで死んでいった人のほうが多いだろうし、それで世の中が回らなくなったかっていうとそんなことはないのだから、別に探した自分が見つからないまま生きていたって構わない。だから「本当の人生の目標を見つけて熱く生きるんだ!」と拳を掲げる人は、探して見つからなかった時、絶望して自殺したりなんかしないでほしい。

「人として」と「女として」

 初めて自分が「女」であることを否応なしに意識させられたのは、14、5歳の頃だ。ある人の祝いの席に招かれて、そこでお酒が出た。隣に座ったのは、40は過ぎているような男性で、嫌な感じのする人ではなかった。酒を注ぐ小さな陶器(それを「とっくり」と言うことだってまだ知らなかった)が回ってきたので、私は「飲みますか?」と軽く聞くつもりで徳利を彼に見せた。すると男性は

「あ、ありがとうございますぅ~」

と嬉しそうに言うが早いが、おちょこを持ち上げた。

 そんな反応をされるとは思っていなかった。まさか自分が水商売の女がやるようなことを求められるなんて、当時10代のわたしは考えもしていなかった。驚いたけれど、うまい交わし方も思いつかずに、仕方なく酒を注いだ。女だからという理由でお酌をさせられるなんて、思ってもみなかった。そうして、自分が「対等な人」としてではなく「ただの若い女の子」として扱われたことが、あまりにも衝撃的だった。

 14や15の女に酌をしてもらう機会なんてそうそうないだろう、あの野郎。その一件は、今でも複雑な気分になって残ってる。それに対するモヤモヤを、どうやって解消すればいいのかもわからない。

 ひとつだけ言えるのは、もう私は奴らに酒を注いでやったりなんかしないってことだ。やってほしいならプロの店に行け。サービスには対価を払え。それが大人ってものだ。私はもう二度と、そんな形で自分を安く売ることはしない。一人の人間として認められているのでなければ、誰かとお酒なんか飲まない。

経済、戦争みたい

 中国に、すごく大きい図書館ができたと聞いて。素直にいいなあと思う。

 「どんな本も揃う図書館を作ろう」と言った人がいて「それを建てよう」と言った人がいて「それならお金を出そう」と言った人がいて、最終的に実現できたっていうところがすごい。経済成長といい、教育熱といい、あの赤い国にはもう敵わないんじゃないかな。

 時々「貧しいのは自己責任」「個人の努力で生産性を上げる」みたいな台詞を聞く。無理だろ、と思う。国のシステムがしっかりしていれば、大量の失業者や貧乏人は生まれないし、個人の努力なんて言葉は、神風特攻隊と同じくらい虚しく聞こえる。一人が命を犠牲にしても、国の勝利に繋がったりはしない。

 過労死なんて言葉には、経済戦争の捨て駒になった哀れな一員という響きすらある。闘わされているっていう感じ。経済力の戦争を。でもって、尻拭いさせられてるっていう感じ。誰かの失策を。

 誰かの失態の後始末なんて嫌だ、捨て駒なんて御免だ、っていう人たちがいま、大量にニートやフリーターになっている気がする。少なくとも自分の周りでは。あの人たち、働くようになったらそれなりに使えるだろうに、仕事に就こうとしないんだよなあ……。頭のいい奴ほど無職、って時代に、ひょっとしたらなっているのかもしれない。怖い。