サティ、はクラシック

 人格の破綻した天才、なんていうのは古今東西大勢いるわけだけれど、中でも今一番興味があるのがエリック・サティドビュッシーと音楽の傾向が似ているなあと思っていたら、二人は友人だった。でも、ドビュッシーのほうが先に死んでしまい、残されたサティはラヴェルコクトーとの関係も断たれ、59歳で自宅に帰ることもできずに病院で亡くなった。

 共産主義、軽快な音楽、アマチュアを自称し肯定して止まない精神、どれもこれもがサティの一部だ。1866年生まれ、1925年没。ということは、マルクスはもちろん、ニーチェフロイトフッサールも生きた時代がかぶっている。近代の「生みの苦しみ」にのたうちまわるヨーロッパの混沌を引き受けるみたいに、サティの旋律には、巨大なメッセージも、伝統に人を縛り付けようとする重力も感じられない。

 当時は破壊者だっただろうサティも、いまや新しい古典になってる。古典の定義は何かと言われたら困るけど、ふとしたときに故郷に帰るみたいに聞きたくなる、そういう曲は誰に何と言われようと、私にとっての古典たりうるわけで、多くの人がそう感じればそれが「クラシック」と呼ばれるにすぎないと思ってる。世界に誇る長編小説『源氏物語』だって、当時は不敬とされていたくらいだから、時代の空気がどんなにアテにならないものかは誰だって知ってる。サティの音楽はクラシック、だ。これは譲らない。

安定と引き換えに失いたいものなんて何もない

 独身でいるからこその美しさ、みたいなものがあるんじゃないかと考えてる。結婚できるできないで悩むよりも、結婚してからどう生きていくか、ちゃんと考えておこうと思う。仕事はしたいし、50代になったら社会活動で認められるくらいになりたい。お小遣い制と称してパートナーを搾取したりせず、どちらも自由であるような関係を築きたい。安定は欲しくても、淀んでしまうのは嫌だ。精神的に古くなっていくのは避けたい。なんでこんなことを急に言い始めるのか、というと。

 買い物袋をいくつも下げて歩いていたら、すれ違いざま、見知らぬ女(やや年上)が思い切り顎を上げ「ハッ」と馬鹿にしたように吐き出して去って行った。彼女からは、私がすることのない専業主婦に見えたのかもしれない。実際がどうだったかはともかく、既婚者になった後、本当に冴えない夢のないただのおばさんになり、一気に老け込むことはありえる話なんだ、と気づいてゾッとした。

 今日すれ違った彼女には感謝しないといけない。また新しいことに挑戦して、言葉にしようのない思春期のモヤモヤみたいなものを、ずっと抱えていたい、安全地帯から他人を妬んで攻撃するよりも、何かしら新しいものを創り出し、自分に挑戦していたい。そういう思いを新たに胸に抱くきっかけになったので。それにしてもあの女は、そうやって人を見下して道を歩かなきゃならない理由でもあるのか。そういう人間は、誰にも相手にされないよ、ドンマイ。

「男」として見ること

 電車内での化粧に文句を言うのは、自分が異性として見られていないと感じる男性なのでは――というようなことをどこかで書いたのだけれど、じゃあ誰かを男として見るってどういうことだ、と言われると定義を即答できない。化粧は「あなたのために綺麗にしてきましたよ」という、異性間におけるある種のメッセージだと思う。で、それを会社や電車の中でまで要求されていたらかなわないだろう……という擁護は置いておいて、男性として扱うとはどういうことか。

 世の中には「男はみんな五歳児!」というファンキーな主張を掲げる方もいらっしゃるけれど、私は「子ども扱い」というのは、公式の場では男性に嫌われることだと認識してる。人前で「あなたは何をやってもだめね、私がやるから座っていて!」と奥さんに言われたら、旦那さんのプライドが傷つく。そういう感じ。「できない」ことを前提に話をしないこと、無能を笑わないこと。それは女の人相手でもよくないことだけど、男性の場合、女性以上に傷つく人が多い。

 あるいは、本来は女性同士でするような生々しい話題を振らないこと。他の男性に歩み寄るための踏み台として見ないこと。そんなところだろうか。話しやすい男性は、ついついガールズトークに巻き込まれてしまうこともあるみたいで、でもそれって男たるその人に対してはとても失礼なことだなと思う。うまくまとまらない。

見栄っていう地獄

 見栄を張る人間を、最初に商売のターゲットにした人って誰なんだろう。きっと、すごく頭がいいんだと思う。見栄は張り始めればキリがないし、無限に肥大化して競争を煽る。そうして市場は成長を続けいつまでも経っても形を変えて生き残り続ける。

 何を考えているかっていうと、タイトルを「インスタ映えっていう地獄」にしようかと思ったくらいの、SNSの隆興について。今さらかもしれないけど、昔から流行には随分後れて気づくほうで、その頃にはもうみんなが一通りの失敗をしてくれているので、流行の先端を行くことができない代わりに非常に損の少ないポジションを獲得できる。それはいいとして、みんな外見だけの幸福な生活アピールに必死過ぎて、わたしはもう笑ってしまうよ。いい年したおばさんが、夫とのラブラブ写真を周囲に見せつけるのは、一体なにが満たされなくてそんなことをするの。

 人間が最も気をつけるべき感情は何かと聞かれたら、私はそれは見栄だと答える。金も時間もエネルギーも使う割に、本当に欲しいものが遠ざかっていく、そういう感情だと捉えているから。ヒトに競おうとする本能があるのはわかる。でも、同じところに皆が集中しているときは、そこはもう飽和市場であって、生き残るには不利な場所であることを示しているに過ぎない。SNSを承認欲求に使うのは、たぶんもう古いよ。そうして苦しい。手放したら死んでしまいそうなものほど、手放したほうが楽になるんじゃないかなって、他人のことならなんとでも言える。

玉城ティナ、別格


TGC SPECIAL COLLECTION 1/東京ガールズコレクション2016 AUTUMN/WINTER

 

 2.40あたりから登場する、トレンチコート姿の玉城ティナ。歩き方、存在感ともに別格を誇っている。男性陣の竜星涼もよかったけど、彼女の方が好き。一応2014年と2015年のランウェイもちらっと見たけれど、徐々にウォーキングが上手になってる。慣れと訓練、あとは才能ってところでしょうか。

 個人的には和風美人が素敵だと思っているので、顔を見るだけだったら、ここまで思わなかっただろうな。彼女はハーフみたいだけど、「切れ長の目の山口小夜子はみたいなモデルをもっと出してよ。なんでこんなにハーフ率高いの、モデル界は」と不満に思っている私にとって、二重のドールフェイスはあまり訴えかけてこない。でも、所作と動きに存在感があるなら話は別だ。

 トップを飾った水原希子に関しては、頑張り過ぎていてエレガントさに欠けると感じてしまう。すごく美脚という感じでもないので、この衣装は合ってない。静止画で見れば迫力のある綺麗な人だけど、動画だと玉城ティナに劣る。

 動画で見るのと静止画で見るのは、わけが違う。両方が美しい人が本当の美人だ。メイクが完璧だからって、綺麗と言われるわけじゃない。立ち居振る舞い、声、仕草、「美しい」はいろんな要素でできている。顔の細工が少し崩れていても、悲観することは何もなくて、美は努力によって出来上がる部分の方が多く、年とともにそれは真実になっていく気がする。

最近の些細な違和感

 室内温と外気温の差の激しさゆえに、外に出て少し歩いただけでクラクラして、水分補給をするも脚の震えが止まず、コンビニでフライヤーの肉を買って食べたら回復した。肉は大事だ。菜食主義者の人たちは、どうやってこの夏、生き延びていくんだろうと漠然と不安になる。卵でも食べるのかしら。

 コンビニの店員は時間給で働いているから、客が来なければ同じ給料で働かずに済むわけで、だからコンビニに限らず接客業の人には(彼らが働いてくれたわけだから)「ありがとうございました」、飲食店なら「ごちそうさまでした」と声をかけてから帰るようにしているのだけれど、たまに変わった反応が返ってくる。

私「ありがとうございました」

店員の方「とんでもございません」

あるいは

私「ありがとうございました」

店員の方「こちらこそ」

 コンビニなら、あちらが「ありがとうございました」と言って、私も「ありがとうございます」と受けて別れるのが普通で、返事が来ると私もちょっと戸惑う。接客業の人たちって、いつもそんなにお礼を言われないものなんだろうか。

 と思って親に聞いてみたところ「普通、こっち側がお礼って言う?」と疑問形で返答がきたので、私のしていることは両親の教育によるものではないらしい。どこで覚えたんだろう?人を働かせたら、当たり前に「ありがとう」くらい言うものだと思っていた。ずっとその中で暮らしているというのに、世間の常識がいまだによくわからない。

機械でできることに思う

 ネットさえあれば無料で本も読める時代ということで、青空文庫国木田独歩牛肉と馬鈴薯』を眺めている。眺めているだけで読んでない。読むなら紙がいい、と思っているアナログ派です。でも、これを印刷してホチキスで留め、好きな絵を表紙につけてしまえば、完全に自分仕様のカスタマイズが可能になるわけで、これをもっとハイクオリティにやってくれる商売なんていうのもあったらいいな。セザンヌみたいなタッチで描かれたジャガイモの絵があったらちょうどいい。

 アナログとデジタルの和解が、もっと進めばいいのにと思う。手書き・縦書きで書いた文章が、そのままスキャンされて画面で活字・横書きに変換されるシステムがあったらいい。手で書きたいときっていうのがあるし、それをいちいち打ち直すのは大変だから。口述筆記をしてくれる機能は、もうあるんでしょうか。なくても出てくるよね。

 いま一番の注目は、3Dプリンター。もう手に入らない(販売終了、古着でも見つからない)服がもう一着つくれれば、永遠にお気に入りの一枚を着ていられる。そんなの誰かに仕立ててもらったほうが早いのかもしれないけど、機械がそっくり同じものを作ってくれるなら、そのほうがなんというかロマンがある。