自分は一人しかいない、という圧倒的に確かな事実

他人なしで生きられる人間なんていないぜ、デイヴィッド。そんなの不可能だ。

かもしれない。でもこれまで、僕であった人間だっていないわけで。僕が第一号かも。

                  ポール・オースター『幻影の書』

 すごく単純な事実として、自分は一人しかいない。過去にもいなかったし、未来にもいないだろう。人について言われることは、なるほど今までの人間がすべてそうだったという、膨大な母数の統計に基づく限りなく正解に近い値かもしれなけど、だからって100%自分にもあてはまるとは限らない。

 占いでもなんでもいいけど「あなたはこういう人だ」という分析は、なんとなくの傾向を示してくれるだけで、それが絶対的に正しいわけじゃないのだ。「女はこう考えるものだ」とか「男はこういう生き物だ」とか「血液型がA型なら几帳面な性格だ」とか、いろんな人が自分についていろんなことを言うだろう。それを鵜呑みにしてはいけない。母性本能のない女もいれば、狩猟本能のない男がいて、雑な性格のA型もいるだろう。当たり前だ。でもそんな不確かな基準で、みんな人を測ろうとする。

 自分は一人しかいないし、他の誰とも違う。ポール・オースターが書くみたいに「僕が第一号かも」。どんなに分析に分析を重ねても、それは100%の正解は弾き出せない。人間っていうのはもっと有機的で、不安定で、すべてがケースバイケースなのだ。そういう気持ちで、自分とも他人とも向き合っていたい。今まで自分であった人間がいないのと同じくらい、あなたであった人間だっていないわけで。

インスタ腹黒話

 インスタグラム嫌いなの?と言われる。違う。正確には、インスタをやってる人をすごく嫌いになった過去がある。結果から言えば縁を切ったくらいに。

 彼女は、私が何か贈るといつも喜んでくれたけど、それは結局「私には、こんな素敵な物をくれる友達がいるのよ!」という自慢に使われただけで、私は金づるではないけど、それに似た何かだった。自分の見栄のために他人を利用するな。友達失くすから。

 誰もが「私を見て!」と叫ぶ世の中って、どうなんだろう?完全に地獄絵図じゃないか?儲かるのは、その「Watch me!」サービスを提供する人間だけで。そういえば、インスタグラムで「いいね!」を稼ぐための友人代行サービスっていうのがあったね。人を雇って、盛り上がってる感じのいい写真を撮るってやつ。思いついた人の搾取精神に感動すら覚える。

  ゴールドラッシュで儲かったのは、鉱夫ではなく、彼らにジーンズを売ったリーバイスでした……。おとぎ話は今も終わらない。

 この調子で頑張ってほしいな。腹黒いことを言うなら、自己愛のために金を払う人間を破滅させる勢いで成長してほしい。私なら写真スタジオをもっと売り込む。

「なんでもない日、おめでとうーー写真館で素敵な一枚をどうですか?

 プロがメイクを担当し、豊富な衣装の中からお気に入りの一着をレンタルできます」

 こんな感じで。もう誰かやってるかもしれないね。気持ちが殺伐としている。

どうして土偶ブームが来ないの?

 自分の中で一番の写真家はリウ・ミセキ。最近その人が土偶を作っていることを知った。あの、大きな丸いサングラスのような目をして装飾を身にまとった、女の人の体型を大袈裟に誇張した土器。その人のサイトに上がっている土偶の写真を見ていたら、案外かわいいんじゃないかと思うようになった。あの目と口の、ほけらーとして丸みを帯びた感じ、最高だと思いません?古代のゆるキャラと言ってもいい。

 一旦そう思ってしまうと「どうしてみんな、この良さがわからないんだろう?」と思ってしまうのが自分の単純なところで、どうしたら土偶に目を向けてもらえるのか考えている。だってフォルムが可愛らしいし、少なくとも歴史に耐えて生き残っている以上、どこかに需要はあると思うのだ。美術マニアだけじゃない、一般の人にとって。

 いままで自力で土偶を作るなんていう発想はなかったけど、フィギュアを作るより健全な趣味に見える。美少女フィギュアって、要は女性の体型をデフォルメした可愛い土偶じゃないか。リアルな土偶を作っても楽しいのではないか。だって、こっちはどれだけくびれを主張し胸と腰を作っても「女性にこのような体形を求めるのは偏見である」という苦情も来ないし、むしろ古代のパワーを感じると称賛すらされる可能性がある。

 土偶の顔はなんとなく、作ってたら癒されそうな顔でもある。そういうわけで、明日にでも粘土を買ってきて土偶をこねようと思う。

人間のモノ化が止まらない

 哲学科出身の自分から見れば、今は人がモノみたいに扱われる潮流が止まらない時代。それを「モノ化」と呼ぼうが「オブジェクティビテ(物体化)」と呼ぼうが変わらない。生身の人がコンテンツになって、自分を一個の完成品として仕立て上げようとする。異常っちゃ異常だけど、吹いた風には逆らえない。

 歌手や俳優の人柄なんてどうでもよくて、歌が上手ければ、演技ができるなら、それでいいよ。それなのにプライベートを晒して、私服が可愛いとか持ち物にセンスがあるとか、もっと有名な誰かと友達だとか、そんなところで人気を取る人がいて、それは「人柄」って呼ばれてる。大衆に愛された者が勝つ、歌も演技もできなくても。別に悪いことじゃない。誰もがそれでいいって言うなら、それが楽しいって言うなら水を差したりしない。

 ただ私は、不倫しようが泥酔して失態を犯そうが、本業さえできていれば問題ないと思う。昔のパリコレのモデルたちは、二日酔いのゲロゲロした姿でバックステージに現れ、それでも仕事はこなして帰るってことが普通だった、と聞いたことがある。今ではそれが難しいのは「モデル」というイメージが崩れないように誰もが自分を商品化するようになったから……かもしれない。まるでみんながみんな、プライベートまでも売り物にして、監視されていることを楽しんででもいるみたいだけど……

 でも本来、大切なものって晒しものにするようなことじゃないし、胸の内深く秘めたものが、いつか文学や芸術として昇華するにふさわしいんじゃない?自分を小綺麗にまとめようなんてしないで、誰も知らないところでぐちゃぐちゃしている人生だってアリなんだし。

人を殺すことの善悪

 「どうして人を殺してはいけないんですか?」という問いは、もう問いそのものが間違っていて、人は理由さえあれば誰かを殺してもいいと思っている。だから、死刑制度のある日本では重罪人は死刑になる。EU加盟国に死刑制度はないが、自動車を廃止している国はない。毎年、交通事故で亡くなる人は後を絶たないけれど、自動車社会の利便性や自動産業のもたらす利益のほうが大切だから、私たちは車を走らせる。だから理由さえあれば、大抵のことは許される。そういう世界に生きている。それに戦争になれば、敵を殺すことはほとんど「善」を意味する。誰もそれを悪いことだなんて言わない。

 何が善で悪かなんて、結局のところ状況による多数決で決まっているんだと思う。「借りた金は返せ」も「人には親切にするべきだ」も、なるほど一般的な道徳ではあるけれど、拘束力はない。「こうあるべきだ」という意見は、ただ単に「多くの人々がこう言っているし、私もそれを正しいと思う」という意見の表明に過ぎない。誰も絶対的な根拠があってそれを言っているわけじゃない。神さまじゃないんだから。「自分は正しい」と主張する人に「なぜ正しいと思うのか」「その根拠は何か」を延々と聞いていけば――例えば「体罰は正しい」「その根拠は?」「子どもの教育にいいからだ」「教育によいという根拠は?」とやっていけば――最後には行き詰るに決まっている。正しさっていうのは案外、不安定で、だいたい周りの空気がそれを決める。

 だから、本当は安易に正しさなんて語れないし語ったらいけない。それをここで言っても仕方ないのかもしれないけど、自分の心には留めておきたい。

黒い食器が売れた理由

 ノリタケの「ホワイト・パレス」シリーズは1996年に誕生して今に至るらしい。平成生まれというとことがすごいね。こんなクラシックなデザインで。今まで廃盤になっていな以上は、それなりに支持があったということで、わたしは何もこの国に絶望しなくてもいいのかもしれない。

 茶器関係で記憶に残るのが、ウェッジウッドの「ブラック・バサルト」シリーズで、名前の通り真っ黒なカップ、真っ黒なティーポット。飲料広告とかに関わる人ならわかると思うけど、食卓関係のものに暗い色を使うことは珍しい。暖色系を使って温かさや美味しさを演出するのが普通で、黒はまずありえない。でもこのシリーズは売れた。

 当時のイギリスで優雅にティータイムを楽しめるのは上流階級の人々だ。彼らは、外で働く労働者層とは違って日焼けしていない白い肌を、上流の証と考えていた。だから、ご婦人方の白い手を引き立たせる食器としてブラック・バサルトは愛好された。これを開発した人は本当に賢いな。

 ノリタケのホワイト・パレスにそこまでの意図はないだろう。でも白と金色で演出された「清潔さ、気品、安らぎ」というメッセージは伝わってくる。買う人はまんまとそれに乗せられて買うわけだけど、こんな風に乗せられるのは悪くない。

礼儀作法、コンプレックス

 自分の育ちがよくないことを今すごく気にしている。きっかけは些細なことで、いつも優しかったはずの男性の態度が少し冷たくなっていて、よく考えたら思いついたことがひとつある。私、彼の小さな親切に対して「ありがとう」って言ってない。会議資料が配られている時、わざわざ私の分の書類を取って回してくれたのだけれど、何も言わずに受け取ってしまった。こういう小さなことができるのが大人であり、お育ちのよい人だと思う。次から気をつけるけど、それは次があれば、の話だ。

 スーパーで買い物をするとき、一万円札をただ出す人と「すいません、大きいので」と言う人とがいる。コンビニのレジで電子マネーを使うとき「スイカでお願いします」と言う人と、無言で読み取り機にカードを押し付ける人がいる。私は一声かけるようにしているけど、そうするようになったのは周りの子たちがやっているのを見てからだ。彼女たちが、私に礼儀というものを教えてくれた節がある。

 今日の彼の不機嫌な態度を見て「礼を学べ」という孔子の教えは、重みのある訓戒だと思う。本当にふとしたところで、自分が何者かが露見してしまう。素性がよくないのならせめて、上手に隠し通せる人間でありたい。