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おばさんが強いわけ

 誰でも、思春期はじめ若いうちは傷つきやすいものだと思う。私の場合は、すごく些細な――たとえば通りすがりの人に罵倒されたり、ぶつかってこられたり、あるいは電車で席を取られたり、そんなことで悩んだことがある。私の外見が舐められやすいのか、みんな美人にはもっと優しいんじゃないか、私だからやられてしまう理由がきっとあるはずだ……そう思っていた。

 違うんだよな。世の中には、理由もないのに悪意を向けられることがあるんだよ、と過去の自分に伝えたい。ひどくイライラしていて、美人だろうがヤクザだろうか、誰彼構わず八つ当たりする人だっている。この世には、想像が及ばないような悪意の形がある。どんなに気立ての美しい女性であっても「なんで女どもは俺に振り向かないんだ!」と女全体に逆ギレする通り魔(アメリカでそんな事件あったよな)に襲われたりする。被害者になる理由なんてどこにもなくても。確かに、若い女性はやり返してこないから襲いやすい、とかいう理由はあるだろうけど、おっさんでもリンチに遭う危険はあるし、ヤクザには同業者に襲撃される危険がつきまとうだろうし、完全に安全な人はいないんだ。

 小学校の頃に読んだ本の中に、護身術を習うシーンがあって、教える側の言ったことが面白い。「殴られても、気を確かに持ってください。ダメージは大したことがなくても、殴られたこと自体に衝撃を受けて、立ち直れない人がいるんです」こんな感じの台詞だったと思うが。そう、傷そのものはどうってことない。自分が憎まれているショックのほうが大きいんだ。だから、そういう精神的苦痛さえ上手にスルーできるようになってしまえば、きっと些細なことでは落ち込まなくなる。世の中のおばさんたちがたくましいのも、そういう経験がモノを言っているんだろうなあ。

オペラ座コンテンポラリー

 コンテンポラリーダンスを好きになり始めてる。パリ・オペラ座のバレエ団が来日中ということで観てきた。来日中のスケジュールの前半は、クラシックバレエの妖精譚『シルフィード』、後半がコンテンポラリー『ダフニスとクロエ』その他。

 『ダフニスとクロエ』を見ていて、言葉がない原始的な世界のことの思い浮かべた。踊る、ただそれだけ。人に見せるためではなくて、儀式のように神事のように体を踊らせるというシンプルな事実。もちろんオペラ座が得意なのはクラシックだ。でも、クラシックの伝統衣装を身に着けて、綺麗に綺麗に踊ろうとするクラシックの時の彼らは、すごく観客を意識している。その点、コンテンポラリーを踊る時は、まるで観客の存在なんてないみたいで、観ているこちら側は誰かの昔の物語をずっと盗み見ているような、不思議な感覚にさせられる。こっちのほうが好きだ。

 本当に、囲炉裏端でおばあちゃんの語る昔話が、音のない映像になって見えているような感じだった。途中までは。最後に、やっぱりどうあっても彼らは観客に向かってアピールしなければ済まないような振付があって、静謐さが消えて残念だったといのはある。振付自体は、あまり面白くなかった。途中までの空気感はとても神秘的だったけれど。

 それにしても、日本舞踊に比べて大きい腕の動きの多いこと。両手を大きく広げる姿は、猛禽類が威嚇してるようにしか見えない。孔雀が翼を広げているようだと言ってもいい。なんだか文化の差異を感じる。

ナマケモノ戦略

 ナマケモノは、徹底して動かない。だから食料も少なくて済み、さらには動体視力に優れたジャガーに捕食される可能性も低い。そして、エサをめぐって争う必要がないように、他の生き物なら食べない毒の葉を食事にしている。こうして調べたことを書いてみると、なんだかナマケモノが賢いように見えてくる。「交尾から出産まで樹にぶら下がったまま行う」、ここまでくると一種の根性すら感じてしまう。睡眠は一日18時間、ついでに肝臓もないらしい。肝臓を病む人が多いことを思えば、そもそも臓器がないことの利便について考えさせられる。

 注目したいのは、一日18時間の睡眠ってところだ。睡眠不足はあらゆる活動の妨げになる。人間ももっと眠るべきだ。お昼の休み時間が、昼食を摂るだけで終わったりせずに、その後に寝る時間があってもいいんじゃないか。私が会社を作るなら、12~14時くらいまで昼休みにしたい。そして昼寝ができるようにベッド完備で。もしくは昼夜が逆転している人のために、17時から深夜までの部署があってもいい。言うだけタダだから、こういうことはどんどん言っていきたい。

 できれば部活みたいなもの、サークルも作りたい。フットサルチームとかイラストクラブとか。でもって、出張は泊りで地元の地酒や特産物をレポートしてくる。今はなんでもスピード感あふれているので、少しナマケモノになるほうがうまくいくこともあるんじゃないか。速い新幹線が必要なときは使えばいいけど、それ以外はゆっくりいこうよ、と言える余裕が欲しい。ナマケモノ戦略を、日常生活に落とし込むことは、一種の生存戦略でもあるのだ。

欲求とお金の使い道

 小さい頃、うちの家庭の財布には余裕がなかった。その影響だろう、今でも娯楽にお金を使うのは気が重くなる。将来のために貯めておいたほうがいいんじゃないかって思いにいつも捕らわれて買い物が楽しめない。子どもを育てるときには、金の心配はさせたくないな……と思う。母だってきっとそう思っていただろうけど、子どもは敏感なもので、財布をひねくり回す母親の困った顔とか、聞こえてくる両親の言い争いから、自分の家が裕福なのか、そうじゃないのかくらい察してしまう。大人になって自分で稼いだお金でさえ豪快に使う気になれないんだから、身に染みついた罪悪感は、地味に根が深い。

 だから破産できる人っていうのは、ある意味すごい。自分の欲望に忠実に生きて、使えるものは使い果たしてしまう破天荒さは見上げたものだ。欲求とか欲望っていうのは、長い間抑圧し続けると、しまいには自分でも何がしたいかわからなくなって「無欲に生きることが善良な市民としての務めだ」と自分を欺くようになったりするのに。解脱でもしない限り、完全に無欲なんて無理だ。それは修行の末に辿り着く境地であって、善良な市民に手が届くような代物ではない。無欲を自称するのは高慢だ。

 ただ、無駄な欲望っていうのも無数にあるわけで、本当にしたいことや欲しい物とそれらとの見分けがはっきりつかないから厄介だ。世の中にスターバックスが心から好きな人なんてさしていなくて、みんな「そこにいるオシャレな私」を買っているように、イメージに振り回されて出費してる人って多いよなあ、と思う。自分に酔うための出費なんて始めたら際限がないのに、皆それで苦しんでいるような気がする。ブランドのバッグを買ったり、ミニマリストに憧れて無印で部屋を統一したり。なんか、一種の思考停止じゃないか、それって。考えることを他人に替わってもらうなら、奪われるものは自分が思う以上に大きいと思う。もっとも、金だけでなく既に思考能力まで持ってかれてる人には、もう何を言っても届かないんだろうけど。ちなみにコンビニのテイクアウトのコーヒー、十分おいしいよ。

自分のいる世界しか見えない

 「整形するならしたらいいよ、コンプレックスを抱えながら生きるよりいい」と言う人、それはそうなんだけど……「女優の○○さん可愛い、あれを目指せ」も、言っていることはわかるだが……それはいつまで続くものなのか。「可愛い」は永遠?それ以上の魅力(例えば知性、立ち居振る舞い、話し方、使いこなせる語彙などなど)のほうが、ずっと大事で、さらには習得に時間がかかる。目の前の顔が今変わるよりも、将来に向けて投資したほうがいい、と私は思う。

 人は、自分が経験した以上のことについてはアドバイスできない。上に挙げた「整形しろ」「化粧しろ」は、恋愛系ブログに書かれていたことだけど、書いた側は、きっとハイクラスの生活を知らないんだろうな、と感じてしまう。少し文化レベルが上の人だと、忠告の中身はこう変わってくる。「テーブルマナーを覚えて」「接客の人には必ずお礼を言うこと」「教養をつけるため、文学作品に触れるように」こっちのほうが、どう考えても後々の人生に生きてくるだろう。言い方はよくないが、忠告の内容には育ちが出る。自分のいる世界のことしか知らない人間が、別の世界の人に対して偉そうに助言を垂れるのは、見ていて痛々しい。

 私にも、見えない世界はたくさんある。スポーツには疎いし、手芸もやったことがないし、アニヲタの日常も知らない。知らないこと自体は別に構わない。ただ、自分の無知については、自覚的でありたい。中途半端な人ほど「日本は学歴社会」とか「要は金だよ」と世の中を見尽くしたような台詞を吐く。そういう人種はこっちから願い下げだ。人を選ぶ際の基準に「世界が広い人」を掲げて生きていこうと思う。

大人になっていいこと

 負の感情とどう付き合っていくかは、まともに考えておいて損はない。醜い気持ちに蓋をしようとして、清らかぶっていた頃が、振り返れば一番苦しかった。理想と現実の乖離がひどすぎて、自己嫌悪が止まらなくなる。人間なら、嫉妬もするし、人の不幸に「ざまあみろ」と笑いたくなったりするものなんだ、と受け入れてからは少しは楽になった。

 とは言え、そういう感情が人生の主要部分を占めると、復讐心に捕らわれて、せっかくの幸運を見逃したり、必要以上に顔が険しくなって老けたりするだけで、あまりいいことはないらしい。復讐心でいっぱいの時は、自分を傷つけた人間を一人一人、社会から抹殺して回りたかったけど、その力のない自分が非力に思えてイライラしただけで、結局何もできなかったし。それくらいなら「優雅な生活が最高の復讐である」と方向転換して、持ち駒をフルに使って、得られるものをすべて得ておくべきだったんだ。

 いくつかの顔を持っていれば、負の感情にも上手に耐えられるようになっていくんじゃないか、と思う。家庭と仕事、プライベート、他にも何か。そうやって居場所が分散されれば、保険がかけられる。子どもの頃は、それができないから辛かった。大人になることのいいところは、そうやって「自分」っていうものを、ひとつの場所ではなく複数に分散させて、生きていけるとこかもしれない。

えこひいきとその後

 中学校の頃、えこひいきをする先生がいて、私はそのとばっちりを食らっていた。どうして今、こんなことを思い出したかと言うと、贔屓されていた側の可愛い子が、一体どうなっているのか気になったからだ。あるとき先生は、私を学級委員にするからと口約束をしておいて、実際にはSちゃんという女の子を登用した。Sちゃんは、人当たりがよく可愛いけれど、成績がいいわけでもなく、人の言うことを大人しく聞くだけの子だった。

 その男性教諭は他にも、まったく選ばれる理由のない男子生徒を、生徒会に入れたりしていた。その生徒は、それまで何も役員をやったことのない子で、Sちゃんと同じように、愛されやすいけれど有能ではなかった。生徒会に選ばれたことで、彼は一部の男子から反感を買って嫌がらせを受けていた。それが普通の反応じゃないだろうか。何もできない奴が、誰かに好かれてるというだけで、実力以上のポストに就いているなんて、面白くないに決まってるだろう。

 あれから月日が経って、かわいいだけのああいう人たちは、今なにをしてるんだろう?と疑問に思う。相変わらず、保護されるだけで生きていくつもりだろうか。目立たず大人しく、誰の邪魔にもならないように生きていくのか。例えば夫にすがって、あるいは上司に媚びを売って。確かに私は、あのとき贔屓のせいで排除された。でも、あの程度の大人に評価されなかったのは、今になってみると幸運だったと思う。

 いい子いい子と褒められる人生っていうのは、褒めている側を超えることがないってことだ。脅威を感じるもの、自分より上のものを、褒めるなんてことはできないのだから。私は今、可愛がられていたあの男子生徒よりも、ずっといい暮らしをして生きている。ホント見る目のない馬鹿な先生だったなあ、と思う。