おばさんの性

 おばさんの性欲について書かれた本で、インパクトがあったのはこの二冊です。中村うさぎ『私という病』、内藤みか『いじわるペニス』。後者は小説だけど、実体験がないとここまで書けないだろうなーと思う。逆に取材だけでこれを書けたなら、力のある作家なんだろう。

 中村うさぎのほうは、作家本人が整形したり、ホストにハマったりと話題に事欠かないイメージがあってあまり好きじゃなかったものの、悩んで七転八倒する姿を赤裸々に晒す彼女の、怨念に近いパワーを感じる一冊だった。図書館でもたまに借りられてるけど、たぶん女の人が読んでるんだろう。女性が年齢を経て、性的弱者へと転落してしまうことの恐怖や悲哀が伝わってくる。でも、自分はここまで悩み苦しんだことがないから、作者のリアルな思いの100分の1も理解できてないんだろうけど。

 内藤みかのほうは、なんだか本当にリアル。小説なのに、現実の痛々しさが見える。若い男を金で買う気持ちって、本当に複雑なんだろうな。女性の風俗遊びは男性に比べて社会的に認められていないから、若い男を買う女は、客であるにも関わらず立場が窮屈っていう矛盾。印象に残ったのは、主人公が買った男が「これ、カードでも買えるんだって」と、高価な商品のパンフレットをこれ見よがしにすべらして寄越す場面。こうやって人にたかるのかあ、そして、女性のほうも買ってあげちゃうのか……とちょっと考えさせられた。なんか、おばさんたちのエロスって、きちんと向き合えばちゃんとした(つまり陽の当たる場所で堂々とできるような)ビジネスになると思うんだけど。

焦燥

 何かを語れる人になりたかった。一家言持っていて、自分っていうものが確立されている人に憧れた。憧れたのは、自分がそうじゃなかったから。他人の不機嫌が怖かったし、大人から褒められることが大事だった。そうして、そんな自分が嫌いだった。誰かの顔色に振り回される、自我の確立していない自分は、不安定で、情けなくて、何も持っていないグラグラした存在に思えて、「存在の基盤」とも言える何かが、全く落ち着いていなかった。

 趣味らしい趣味なんてのもなくて、そういう「好きなものがない自分」がまた嫌いだった。だから、好きな音楽や趣味を聞かれたら、だいたい当時の仲の良い友達の好きなことをまるまるパクって答えていた。空虚な自分への焦りがいつもあった。「人間こう生きるべきだ」っていう基準が明確だった頃なら、抑圧は苦しくても、自分がないって悩む必要はなくて済んだんだろうなと思う。

 昔、「自由」って言葉は悪いものみたいに言われていたんだそうだ。それは放埓や堕落と結びついていて、秩序を重んじ、それに人を当てはめていくことが至上とされていた時代がある。今の時代はその反動で、変に自由をほめ過ぎるところがある。抑圧されないのはいいけど、なんの判断基準も与えないまま、私を人生の中に放り出さないでほしい。

 「衣食住は足りているくせに、なんの不満があるの」と聞かれたら、私は何が正しいか、何が欲しいのかしたいのか、自分でもよくわかっていないことだ、と答える。それがどんなに贅沢な悩みに見えたとしても、それがわからない人たちが、漠然と消費社会や新興宗教に搾取されているのを見ると、悩みの闇がもっと濃くなる。

貧乏人の言い分

 大学生になったとき、初めてバイトをした。土日だけという気軽さだったけど、一個だけ身をもって知ったことがある。「休んだら一円も入って来ない」、これ。裕福な人の盲点なんだよね、ここ。

 小学校の頃、雪国に住んでいて、ある時「みんなで通学路の雪かきをします。参加してください」というおふれが出された。それを見た母は「子どもの通学路なんだから、子どもたちでやるんだろう」と考え、私を一人で送り出した。帰ってきて「他の家は、お父さんとかお母さんが来てた」と伝えると、母は仰天した。

 一体どうしてよ?あんたたちの歩くとこを、なんで親が雪かきするのよ?子どもは家で何してるのよ?

 私は「知らないよ、そんなこと」と言って終わった。その後、市役所だかどこだかのお偉いさんのお話があって、保護者はそこへの参加を推奨されていた。母は、学校のやることだからとパートの仕事を休んで行った。お偉いさんは「地域ぐるみのこういった活動は素晴らしい」と雪かき運動を褒めたが、ある女性が最後に意見して言うには

 「私たちは、時給いくらの仕事を休んでここに話を聞きにきてる。うちの息子は家でテレビを見ていて、私たちは仕事を休んでまで駆り出されて、お前の「ありがたい話」を聞く。これの何が素晴らしいって?何がしたいんだ、お前ら?(意訳)」

 とのことだったらしい。そう、固定給で働いている人には、わからないんだよね。時給で使われている側にとっては、連休なんて地獄だよ、一銭も入って来なくなるんだもん。お偉いさんはその意見を聞いて白けただろうけど、それが現実だ。貧乏人は、金持ちを楽しませるためにいるわけじゃない。貧しい者にも言い分はある。

就活本の優秀

 去年あったことなんて、過ぎるままにしているからよく覚えてない。それで就活生向けの「教養・最新時事」問題集なるものを買ったら、これがおもしろい。要点は簡潔にまとめてくれるし、見やすくわかりやすく、短時間で効率的に情報摂取できる感じがたまらない。筆記試験の対策本も覗いたら、数学・語句の知識を問う問題はじめ頭の体操になりつつ実生活にも役立ちそう。さすが就活本。無駄がない。

 その真っ只中にいる就活生には辛いだろうけど、離れてみると興味深いことって結構ある。受験のときは暗記に追われてつまらなかった世界史だって、大人になった今になって、勉強してみたいと思うし。歴史を俯瞰したい国は、一番はスペイン。一時期は世界の覇者となり、唐突に偉大な芸術家を輩出するこの国に、今は関心がある。

 無理矢理、教えられることには抵抗があるけど、就職時に叩き込まれるマナーにしろ、学校の勉強にしろ、一応その背後には「これを教えたい」「これを知っておいてほしい」と願ってわざわざ教える人がいるわけで、それを思えばすべてが無駄になるっていうことはそうそうない。頑なに「勉強しろ」と言う大人にはなりたくないけど、興味ないことでも、とりあえずやってみるとおもしろいこともあるよ、と若い人たちに伝えられる人間でありたい。

商店街とコンビニ

 百均とコンビニの便利さは進化しているので、たまに行ってみることをおすすめします。ダイソーでは電球まで売ってるし、ペーパーバックの本も買える。ローソンでは糖質オフのパンからドーナッツまで展開され、さらには店内にポストがあって、レターパックも買える。郵便局に行く必要がない。ATMは月四回まで無料(これは銀行によるかも)。

 地方の錆びれたところでは、本当にコンビニが生命線になっている人たち(主にお年寄りの常連)が多いから、必然的に提供するサービスも増えていくんだろう。都会にいれば、ミスドドトールがあるのに、なんでコーヒーやドーナッツをコンビニで出すんだって思うかもしれない。そうじゃない。田舎に行くと、スーパーマーケットがまず遠い。ミスドタリーズもみんな遠い。そういう人たちが、コンビニを使って欲を満たす。サービス過剰なんじゃなくて、ちゃんとニーズがあって、あの便利さが生まれてきたわけだ。そりゃあ、地方でこすっからい商売していたところは潰れるに決まってる。シャッター商店街が問題だとか言うけど、どうして問題?ただ人々の需要に応えられなかっただけじゃん、と思う。

 商店街がこれからどうしていくべきかなんて、私は知らない。ただ、欲しいものをくれるところにこれからも行くだろうし、そうじゃないところは見捨てられるだろうってことだけはわかる。余談だけど、クラウドソーシングの仕事を覗いて見た時、翻訳系の仕事は単価が低くすぐに枠が埋まるの対して、オリジナルの記事のほうは日本語しか使えなくてもOKだし、しかも単価も高めだった。自分で何か作り出せるって、実際生活でも幅を利かすのだ。「勉強しなさい、それ以外は無駄」とか言う親御さんは、一度この現実を見てほしい。

歴史がわかると見え方が違う~映画~

 『カサブランカ』は、YouTubeに全編和訳付きでアップされているくらいの(?)知名度の高い作品なわけですが。あれを子どもの頃に見ても、良さがよくわからなかっただろう。あれ、要は第二次世界大戦時のドイツをすごくこきおろしているんだよね。途中でアップになる、建物に書かれた「自由、平等、博愛」が意味するのはフランス共和国のスローガンだし(ここは日本語で字幕を出してほしい。仏語がわからない人にとってはただのアルファベットの羅列だ)、ドイツ軍人が歌っているところをフランス国歌を歌って皆で邪魔したり、「ヴィシー水」と書かれた水のボトルを捨てたり(当時のドイツはペタン内閣が権力を握っている。その本拠地がヴィシー)、わからなかったらスルーしてしまうよ、あれ。二十歳超えてから見て正解だった。

 本当は、小さい頃に見ていたかもしれない。うっすら映像に既視感がある。子どもの頃は圧倒的にミュージカルが好きだった(特に『雨に唄えば』)。理由は単純に楽しいから。男女の複雑な恋愛模様、政治情勢に翻弄される人々という『カサブランカ』の内容は、たとえ観ていても子どもには受け止め切れなかったろう。大人になってからでも、歴史を知らなかったら、ただの人間ドラマと思ったかもしれない。

 「すぐれた作品には社会性がある」と教わったことがある。その当時の政治、文化の流れがにじみ出ているというのが、傑作と呼ばれる作品群の共通点なのだそうだ。逆に言えば、それがないものは仮に流行ったところで歴史には残らないと。そうだろうな。だって後世から見たら、そのほうが議論の余地がある。自分から踏み出さないとわからないことを用意してくれるのが、名作なのだ、きっと。

「シンプル」はいいけれど

 「ていねいな暮らし」「おとなのシンプル」みたいなキャッチフレーズが、白地を背景に書かれている雑誌とか本とか。最初のうちはよかったけど、最近では氾濫し過ぎて、見た途端シラけるようになった。「おひとりさま」「一人の時間を優雅に過ごす」みたいなのも、その仲間だ。一人で有意義な時間を過ごす、それはいい。一生独身でいるのも、その人の判断だから構わない。でもそれを美化するのはおかしい。やりたければ黙々とすればいいことを、わざわざ美しいものに祭り上げるのは、何かそこに後ろめたさや違和感があるからだ。

 シンプルは美しい。それはわかる。しかし、それを提唱する人たちのやっていることは、要は「シンプル系の店で物を買う」「自然素材の物で身を固める」「それを美化する人を支持する」ことであって、質素な生活そのものを愛しているようには見えない。私の知る限り、本当に質素な人は、まずそういうもの――ミニマリストの本とか無添加を謳う化粧品とか――に手を出さない。ある人は自分から木を切り出して家具を作り、ある家では三世代に渡って同じ服を着て、水だけで髪を洗っている。でも、それでは経済が回らないから彼らは歓迎されないだけで。

 「おひとりさま(独身主義、もしくは人間関係いりません派)」も、それが本人の判断ならいい。けど、ずっと一人ぼっちっていうのは、山奥で修行でもするのでない限り辛いだろう。今は一人でいいかもしれない。それで老後はどうするの?狭い家にたった一人で住むの?断捨離した人間関係が戻って来ないまま、ぽつんと独り身でいるのが本当に理想なの?と思う。人間関係にしろ、物にしろ、やたら簡素化が推奨されているけど、人に言われてやるくらいならやめときなよって言いたい。一人が寂しいと少しでも思うなら、強がり言っていないで他人に歩み寄ることを覚えたほうがいい。