みんな持っている体は違うのだ

 綺麗に撮られた女の人の義足を付けている写真を見て、なんだかいいフォルムだなと思った。義足で普通に立っている感じが、メカニックでも有機的でもない身体の可能性を感じさせるというか。義足モデルっていうジャンルがあること自体は、今日初めて知ったのだけど、こういう「体の一部が器具」っていうところに新しいアートを感じる。

 今日は無印良品で少し買い物をして、並んでいる間、レジにいる店員さんを見るともなしに見ていたら、偶然みんな女性だった。一人はかっこいい系のメイクを施したハリウッド女優みたいな趣きで、一人は天然素材の似合いそうな柔らかい雰囲気、もう一人はほぼすっぴんのベリーショートで、活発そうな人だった。美しさも多様だなあと思ったし、これが三人とも似たような外見だったら、例え美人であったにしても「なんか退屈な光景」と感じたに違いない。いろんな人がいるってやっぱいいね。何がいいって風通しがいい。自分が多少「普通」のラインを外れたところで、きっと生きていけるっていう自然な希望が持てる。

 「みんな違う」の意味は「すべての人が異なる身体を持つ」っていう、とても具体的な観点からまず見られていいと思う。内面はそりゃあ違うだろう。ではなくて、生まれつき足がよくないとか、いわゆる美形だとかそうでないとか、単純に性による体の違いとか。そこから話を始めていったほうが、いきなり「世の中には障がいを持つ人もいるのです!」って説教口調で始めるより、バリアフリーの考えをよくわかってもらえるのでは。

 「顔やスタイルが生まれつきよければモテる。醜く生まれつけば人生がハードである。ならば不細工は障がいである」と言う人もいるけど、それだって身体の違いのひとつなわけだから、ハンデつけてくれよって意見もわからなくはない。どこからが障がい者なのか、なんて実際にはひどく曖昧みたいだ。

芸能人の整形はむしろ歓迎

 アジアNo.1の美女と言われるアンジェラ・ベイビーが最近好き。彼女の顔に関しては整形が疑われている。ひょっとしたら豊胸もしているかもしれない。だけど綺麗ならいい。だって芸能人でしょ?メンテナンスだって大変だろうし、自然な顔をいじるのは覚悟の要ることだろう。それでも美しさを見せてくれるのが彼らが売る「夢」であり「芸」だと思うから。つくづく、そうやって他人に見られることに人生賭けられる人ってすごい。

 渡辺麻友石原さとみも「昔と顔が違う」と言われているけれど、それはそれでいいんじゃないか。だって今のほうが可愛いんだから。周囲も本人も「そのほうがいい」って思っている、そのことに整形だなんだって文句つける人って、一体なんなんだろう。見られることが商売の人は、綺麗ならいい、綺麗ならいいんです。

 で、逆に一般人だったらその必要はないと思っていて、普通の人がどうしてそこまでルックスを気にするの、自分に自信がないのかなって思う。万人受けを狙わなきゃ仕事がなくなるわけじゃなし、むしろ欠点を主張するっていう冒険ができるのが一般人の特権ですよ。自分は丸顔の顔を、さらにチークで丸く見せるのが好き。人によってはそのほうが可愛いと褒めてくれるから、そういう人と付き合えばいい。それだけの話。

愛情表現を学ぶということ

 家族のものを勝手に捨てるテレビ番組があったらしい。ツイッターで話題になっていたからなんとなく知った。別にお互いに憎みあっているわけではないだろうけど、私の思う家族像に照らし合わせると、その人たちはなんだか不気味だ。愛情表現っていうのがどういうことかを教えられずに大きくなってしまった、「欠点を欠点と気づくことのできない」人間の匂いがする。

 好意を表すっていうのは実は訓練の必要なことで、いきなりできるようにはならない。誰かに大切にしてもらって初めて、人を大事にする方法がわかる。虐待された人が、その子どもをまた虐待してしまうのは、それ以外に愛する方法を知らないから、かもしれない。抱きしめること、笑いかけること、アイコンタクトを取ることで「あなたに気づいています、好意があります」と伝えることができる。そういうことは、知らずに育てば一生知らないままだ。

 「本人を大切にする」のは、愛の最初の段階。家族ならもう一段階上の愛情で結ばれていていい、と私は思う。「相手の大事なものを大事にすること」だ。結婚すれば、相手の両親、親戚、友人らが自分の視界に入ってくる。彼らを大事にするか、少なくとも粗末には扱わないようにすること、特に友人の悪口を避けること。そして、自分にとってどうでもよくても、相手にとって価値のあるものは少なくても捨てたりしないこと。そのあたりが、配偶者を持って家族を成すときの常識だと思うのだけれど。

 自分は既婚者ではないから大きなことは言えないけれど、相手の好きなものを尊重できないようなら、結婚なんてたぶん、しなくていいと思うよ。それともその人にとって家族は、自分のためにだけあるものだったんだろうか。夫は金を稼ぐ機械じゃないし、子どもは飾りじゃないし、妻は家事ロボットじゃない。そういうことを、いちいち言わなきゃいけないの?

チバユウスケと青春

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 ボブディランの「Tell Me That It Isn't True」。歌詞集から。

 

 ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞したって聞いたときは「ふうん」と薄い反応だったのだが、だったらチバユウスケが取ってもいいんじゃないかと感じるようになってきた。

 チバユウスケの詞集『ビート』は、15歳の頃にヴィレッジバンガードで買っていまも持ってる。その時の本当のお目当ては甲本ヒロトの詞集『日曜日よりの使者』だったんだけど、こっちはもう手放してしまって、本棚には黒いカバーの『ビート』のほうが残ってる。詩的な表現が忘れられなくて、いつの間にか、自分を十代に引き戻す一冊になってしまった。ロック自体は全然聴かない、ただ歌詞を詩として好きっていう、音楽ファンにしてみれば邪道な好き方だ。でも文句は言わせない。恥を忍んで言う。チバユウスケは私の青春。

 ところでボブディランの歌詞集を借りて、初めて彼の詞を読んでいるけど、もう既にいくつかの詩篇を好きになった。曲も聞いてみるかもしれない。どうしたって自分は書かれた言葉に惹かれてその中に住む人間だから、音楽の熱い気持ちなんていうのは一生理解できないのだとしても、歌詞をどう受容するかくらいは私の自由だ。誰かがギターを弾いてがなっている横で、静かに歌詞集を開いていたい。そういう人生でいい。

「成長」って本来は楽しいものだったはず

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 19世紀の美術、絵画、文学分野の人々をたどる人生ゲームがあったらいいなーと思って試作。ランボー誕生(1854年)もここらへんに入れるべきかもしれない。実在の人物の足跡を辿るゲームはもっと多様化していいんじゃないか。誰かの生き様を追体験するって結構楽しいと思う。

 

 マリア・モンテッソーリの育児理論を読んでいるけど「成長」って、もともと楽しいものだったはずなんだよなー。自分の力で何かできるようになるのは達成感があって、それが私たちを大人にしてきたはずなんだ。それなのに今この言葉を聞くと、誰かのために無理くり体を引っ張って伸ばされるような響きがする。「経済成長のための個人のスキルアップ」なんて、もううんざりだよ。国のため誰かのために自分を向上させるなんてのっけからズレてる。

 サーカスの象理論っていうのがあって、小さい頃に無理だと思いこんだことを大人になってもできないっていう現象なんだけど、人間でもよくある話です。そういう自己肯定感の低さが本人の本当の、健全な成長を阻害する。「私がそんなことしたところでどうせ」とやる前から言うようになる。やる前はできなくて当たり前でしょ。今まで誰に何を言われて育ってきたか知らないけど、大人になるってことは誰の言い分にも左右されなくていいってことだったはずだよ。

 童心に帰るって大事なことだ。何か新しい自分になる、みたいなの、本当に楽しかったよね。

文化ができるまで

 人類のこれから、なんていうととても広い話題過ぎてどうにも手に負えないのだけれど、そうじゃなくて先進国(と自称している国々)のこれからだったら、ちょっとは考えられる気がする。機械の進歩、医療の発達、家事時間の軽減、みんな素晴らしい。素晴らしいけど、それによって空いた時間で何をするのかは、まだ手探りって感じがする。あらゆる病気や貧困が駆逐され、お金のために働く必要もなくなったとしよう。そうしたら「そもそもやりたいことがない」人が直面するのは、きっとただの虚無なんだ。

 娯楽や芸術産業は、これから隆盛することはあっても衰退することはないだろうと踏んでる。世の中が便利になって、労働や家事の時間が減っていく、その進化は止まらないのだと考えれば、余暇の使い道が当然一番の関心事になるわけで、そこで「付加価値なんてものはくだらない。時計は時間がわかればいいし、食べ物は食えればいい」なんて言っていたら置いていかれる。人々が求めるのは、デザインであり、そこに伴う物語だったりするから。

 質の高いものを理解し支援する消費者(というか享受者)を育てていけば、そこに文化ができる。だから、生産しなくたって、何を選んで享受しているかっていうところに消費者の責任があって、今の世の中と誰もがダイレクトに繋がっているんだっていう感覚を忘れたくない。上質な何かが消えるのは、それを評価してこなかった自分たちのせいなんだと自覚できる人間でいたいし、いま目の前にあるものも、自分たちが支えることで残っていくんだという自負も持っていたい。 

効率は大事。でも

 若い頃のエジソンは、仕事をサボって寝ていたいがために、簡単な機械を作って仕事をさせていた。そういう効率の良さにつながるなら、サボりたいって思うこと自体は何も悪くない。むしろ、どんどん効率化して寝る時間を増やすべきだとすら思う。無駄な努力ほど悲しいことってこの世にないし、それが無駄かどうか見極めるのが知性であり理性でなのだから、それらを養うためにも教育は必要なのだ。学校で無駄な我慢を教えているようじゃ、なんのための教育かわからない。頑張った人じゃなく、結果を出した人間を褒めるよ、私は。

 ただ、効率を最大化するのがちょっと怖いな、と思った事例が最近あって、それは安楽死の合法化だ。合法化それ自体には賛成だし、いたずらな延命治療は本人を苦しめるだけと考えているけれど、これって「人の死がコントロールできるようになる」っていうことでしょう?ひょっとしたら政府が「年金受給者を減らすために安楽死志願者を募ります」なんて言い出しかねない。戦争とは違う意味で「お国のために死ぬ」圧力をかけられるようになるんじゃないかって不安。「年寄りは年金食いつぶすだけだから死ね」って国が言うの。あるいは「働かない人間は安楽死せよ」と不謹慎なことを言う輩も出てくるかもしれない。

 人間の生き死にだけは、効率だけで捉えたらまずいんちゃうかなあ……。人文学の人たちは「君らの学問は金にならない」って視線に負けず、そういうことをもっと考えておくれよ。