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顔色を窺う子どもだった

 別に毒親ではない、普通の両親のもとに生まれ育ったと自負しているけれど、親に気を遣っていたことだけは覚えている。例えば、親子で外食に行ったとする。そうすると、とりあえずメニュー表の価格を気にした。子どもの頃は、漠然とウチは裕福じゃないんだと感じていたから。それはたぶん、父と母がお金のことで言い争っていたから、でなければ、何か欲しいと訴えた時に「いくらかかると思うの」と真顔で言われたからかもしれない。それで、お金の絡むことはなんでも、周囲の大人の顔色を窺って行動するようになった。

 子どもは大人の表情に敏感だ。だって、それが正しく読み取れるかどうかで、ここで安全に生存できるかが決まるのだから。地域のお祭りの時に、出店の前で「なんでも好きなもの頼んでいいよ」と言ってくれた町内のお兄さんが、困り顔で千円札をひねくりまわしているのを見れば、それだけで何も言えなくなった。何か聞かれても、強情に「別に欲しいものなんてない」と言い張った。もっとも、その気遣いが大人に通じるわけもなくて、私は「甘えない、子どもらしくない子」の称号を受け取っておしまいだったけれど。

 今思えば、欲しかったものはどれもこれも、大きな額ではないから、気にせずねだればよかったのかもしれない。頭でわかっていても、いまでも親子で出かける時は、これにいくらかかっているんだろうとふと思う。両親はもう、経済的なことで言い争ったりしない。困り顔のお兄さんもどこかに消えた。でも、自分の欲しいものやしたいことが、大人に受け入れられないんじゃないかと怯えていた、その感覚はずっと残っている。子どもでいるのは、そういう意味では不安だった。あの頃の怯えの記憶は、自分でお金を動かせることの気楽さを、成長した自分に教えてくれる。