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言葉は常に比喩であるということ

 ずっとモヤモヤしていた気持ちが、言葉になるとそれだけですっきりする。そういう経験を何度もしている。一番、印象に残っているのは「すれっからし」という単語。

 17歳の時、大人が嫌いだった。夢もなく思想もなく、ただ日常と常識に流されている大人たちが、ほかのすべての17歳と同じように、嫌いだった。ある日、駅の階段を上っていて、唐突にひとつの詩を思い出した。茨木のり子の「汲む――Y.Yに」という詩の冒頭だった。

 

 大人になるということは

 すれっからしになるということだと

 思い込んでいた少女の頃

 

 当時の私は、まさにここに書かれている「少女」だった。ああ、本当にそう思ってる。ああいう大人たちを「すれっからし」って呼ぶんだ。大人になるということは、すれっからしになるということ。でも、それって事実じゃないか?思い込みなんかじゃなくて、大人はみんな、すれている。永遠の思春期なんて時間が許してはくれないし、子どものまま老けた大人ほどみっともないものはない。私は、この詩の境地にまだ辿り着けていない、言葉の意味はわかるけれど。

 言葉は常にある種の喩えだから、事物そのものを言い表すことはできない。物事は、それ自体では善でも悪でもないけど、言葉を使って思考を始めた瞬間、解釈が入ってきて中立的に考えることができなくなる。言葉を無自覚に使う前に、それがどんな人の使う、どんな思想を含んだ言葉なのか理解しないと、言葉に復讐される。

 「あなたが美しい言葉に復讐されても そいつは 僕とは無関係だ」「言葉が意味にならない世界に生きていたら どんなによかったか」

 田村隆一の「帰途」から。この詩も、初めて読んだときは、自分の気持ちを言い当てられたことに衝撃を受けた一篇。それが自分の思考や性格までも規定してしまうっていうのに、言葉に無自覚な人があまりにも多い。