焦燥

 何かを語れる人になりたかった。一家言持っていて、自分っていうものが確立されている人に憧れた。憧れたのは、自分がそうじゃなかったから。他人の不機嫌が怖かったし、大人から褒められることが大事だった。そうして、そんな自分が嫌いだった。誰かの顔色に振り回される、自我の確立していない自分は、不安定で、情けなくて、何も持っていないグラグラした存在に思えて、「存在の基盤」とも言える何かが、全く落ち着いていなかった。

 趣味らしい趣味なんてのもなくて、そういう「好きなものがない自分」がまた嫌いだった。だから、好きな音楽や趣味を聞かれたら、だいたい当時の仲の良い友達の好きなことをまるまるパクって答えていた。空虚な自分への焦りがいつもあった。「人間こう生きるべきだ」っていう基準が明確だった頃なら、抑圧は苦しくても、自分がないって悩む必要はなくて済んだんだろうなと思う。

 昔、「自由」って言葉は悪いものみたいに言われていたんだそうだ。それは放埓や堕落と結びついていて、秩序を重んじ、それに人を当てはめていくことが至上とされていた時代がある。今の時代はその反動で、変に自由をほめ過ぎるところがある。抑圧されないのはいいけど、なんの判断基準も与えないまま、私を人生の中に放り出さないでほしい。

 「衣食住は足りているくせに、なんの不満があるの」と聞かれたら、私は何が正しいか、何が欲しいのかしたいのか、自分でもよくわかっていないことだ、と答える。それがどんなに贅沢な悩みに見えたとしても、それがわからない人たちが、漠然と消費社会や新興宗教に搾取されているのを見ると、悩みの闇がもっと濃くなる。